昭和51年08月12日 朝の御理解
御理解 第70節
「人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせねばならぬ。」
万物の霊長であるということ、又その値打ちというのは生まれながらにして、神様のお心いうなら天地の分け御霊を受けておるという事だと私は思います。他の動物にはそれが無い、ですからね頂いておる分け御霊である魂を、いよいよ分け御霊たらしめると言う事だと思うです。こんくらいな事は人間だからと言うとる間は、それは人間であるかも知れませんけれども、霊長としての値打ちはない訳です。人間だんだん長ずるに従って様々な感情とか、様々ないうなら我情我欲がついて来ます。
そして格好は人間の格好はしとるけれども、心は浅ましいそれこそ犬畜生にも劣るような、心すらが心の中にだんだんでけて来る。それに気付かせて頂くのが、まぁ私は真の信心だと思うのでけれども、そこからいわゆる本当の人間としての値打ち、いうなら万物の霊長としての値打ちを発揮出来る事のために、自分の心に本気で取り組ましてもらう。私は今朝方お夢を頂いておったが、私の知った人に、町でもあんまり評判の良くない人ですけれども、従兄弟同志ほんな隣同志の様な所に住んでおる。
そしてもう何十年という間ものも言わなければ付き合いもせん、その何かがあったんでしょうね、親戚もう他人よりもいわば浅ましい、色んなあっちの役なんかがありますよね。例えば婦人会なら婦人会、村なら村の色んな役を断りせなんけれども、隣にいろんな振れ回して行ってせんならんから、もうこれだけは断るといって断わり続けてきた。隣の奴ともの言わなんちという位にその仲の悪い親戚同志、その人達が今朝そのお夢の中になんかチョットしたその電話の間違いかなんかで。
電話で話をせにゃならん事になってですね。そしてそれこそ何十年振りに、それが切っ掛けで和解が出来てたという話を聞いて、私が非常に喜んでおるところで目が覚めた。人間の感情の中には、それをまぁ高みの見物的にその親戚ごかしにいうても、高見の見物的な、例えば家の内がもめたり親戚同志が仲が悪かったりすると、そう言う様な心も人間の心の中にゃある。それこそ隣が蔵を建てるとこちらはそれこそ腹を立てると言う様なものがあるとか、羨むとかね妬むとか言った様な心がある。
私は万物の霊長といわれる人間には、そういうものはあってはならないと思うんですね、だからこれはもう人間だからと言ったら霊長としての値打ちはない事になるんです。だから霊長としての値打ち、人間としての本当の値打ちというのはね、自分で例えばこんな事いけないと思うたら、又抑制する事もでけるし、又は自分の心の中に喜びを感ずる、有り難い勿体無いと言う様な心を頂けるのも人間だけです。いうならばそのう喜怒哀楽という様なものがです、けれども人間の本当の値打ちというのは。
そんなに腹が立ったり怒ったりする様なものがあってはならんのです。いうなら神様なんだから、神様の分け御霊を頂いとるのだから、だから神心だけしかだからあるのが本当の人間なんです。だから信心とはその人間が持って生まれたところの分け御霊を、分け御霊たらしめる為に、いろんな修行をしてでもお話を頂いてでも、それを実行してでも自分の心の中に、有り難い勿体無いという心を開いて、もうあれも道理ここにね道理に合う信心をというが、道理に合う信心をさしてもらい。
自分の心があれもおかげこれもおかげと、例えば昨日の御理解でいうならば、人の口には戸は立てられん。人がどういうことをいうても腹を立てな、顔は神が洗ろうてやると仰るそういう御教えを、例えば頂いて腹を立てん修行がでけるのも人間だけです。そして実際はですその腹を立てない事こそが、人間であり霊長であり分け御霊を頂いておる、その分け御霊を頂いておる純粋な人間だということになる。我情がつき我欲がつき、様々な所を通って来てね。いうならば霊長としてあるまじき、いうならば行動をしたり。
いうなら感情が血肉の繋がった親戚まですらもです。何十年間に隣同志なところにおっても、ものも言わんと言う様な事であっては、霊長としての値打ちはないということです。だから私は思うのですけれどもね、本当にそういう素晴らしいいわゆる全ての事を、有り難い有り難いで頂いていけれる人間になった時に、始めて人間としての値打ち、いうなら霊長としての値打ちが頂けて、そこにあるものは人間の幸せ。人間の幸福の条件の全てが足ろうて来るおかげになって来る。
だから本気で例えば昨日の御理解をまぁ引用しますとですね。どんなに人が顔に関わる様な事をいうても、それは神様がね自分の心の中に、神の比礼を下さろうとする前提であると言う事が、道理の上で分かって来る。どんなに腹が立とか情けないとかと思うておる様な事であっても、それは神様が本当に幸せにして下さろうとする、働きが起こっておるんだと言う事が分かったら、それを辛抱する事もでければ、又はそれを有り難く受ける事すらも出来る様になって来る。
道理が分かれば神様の心が分かればね、神様の心が神様の心を持って受け止めて行くというのが、私はもう信心だ人間は、だから生涯そこんところに取り組んでいく事だということになります。夕べ遅う石井清さん達が兄弟全部お礼に出て来ました。昨日あちらの清さんの姉さんになりますかね亡くなった。みや子さんて言われましたの式年祭で兄弟ばっかりで、まぁ集ってここから末永先生と幹三郎と二人で参りました。そのお礼に兄弟揃うて出て来た訳なんです。それでまぁ暫くお話していきましたが。
偶々この頃から清さんが腹を立てんと言う事は、もうおかげであれも卒業したから、今日から不平不足を言わんと言うそのう事を、この頃壮年会の時に皆の前で宣言しとるから、薫さんようとお父さんが不平不足を言うごたる時にゃ、横におってからそのうブレ‐キをかけにゃいけないよと言うたら、薫さんがこんな事をいう、いいえ家のお父さんは絶対言うたら、神様に誓うた積りですから絶対狂いませんち言うたですよ。私しゃこの位家内から信用されるなら素晴らしいと思うですね。
私がね。まぁ冗談半分に言ったんです、そしたら薫さんがそげん言うです。いいえ家のお父さんはもう神様に誓うたら絶対もうあのう間違いなかと言うんです。腹を立てんというたら絶対立てん、不平不足を言わんというたら絶対言わん、それはもう腹を立てんということだけで、素晴らしい体験を頂いておるのですから、腹を立てん程しの事が身についてしもうたのだから、不平不足を言わんぐらいな事は、もう問題じゃないくらいに確信を持っておると言う訳なんです。
私はそれを本当に聞いてね、成程家内が粗末にするとか、家内がどうかこうかと言うけれどもです。家のお父さんは口ばっかりと例えば言う様な事では、家内夫婦の本当の信じ信じられる仲ですらが、生まれて来ないと思うですね。私それを聞いてから又改めて感心致しました。昨日はちょうど午後の奉仕をさせて頂いとります時に、ちょうどそこで二十人位な方達が、昨日の朝の御理解を頂いとりました。
そこへちょうど参っているのが、岩光の吉松さんというて、孫さんが顔にこのホヤケのね、出来とる方があのう娘さん縁についておられるところの、娘さん達夫婦も一緒にああして親子四人連れで熱心に参ってきます。昨日昼月次祭にお参りがでけなかったというてから、昨日お参りして見えましてから、先生今朝方からもう本当に妙な夢を頂いてからとこう言うんです。どういうお夢を頂いたんですかちゅうたら、ここにお参りをさせて頂きましたら沢山な人が集まって。
ちょうどお祭りの後のご直会を頂いておられると言った様な様子でした。したら末永先生が見えて、その顔に何か印を入れとかにゃいけんといって、墨でこういろいろ書いちなさった。書いて貰いよる内に顔がこうこんなに歪んでしまった。そしてご直会を頂こうと思うてこちらへ来たら、そのご直会を頂きよる方達が、皆んなでわぁと声をあげて笑うたところでございました。もう恥ずかしいやらもうおるどこんない様な気持ちでおりましたら、あのう親先生が西瓜を八つ切りに切った西瓜を持って来て下さった。
それを少しばっかり頂きましたら、もう本当に嘘のようにその顔が奇麗になったところでございました。その後にご直会に出ておるお寿司を頂いておる、お夢でございましたと言うのですよ。私はその後理解を頂いてから、ここを私降りましてね、皆んながあそこで御理解を頂き終わったところで降りて行ってから、チョイト皆さんあんた今日の御理解を一人一人どう頂いたか、合楽の御理解はね、本当に私が話しよるとじゃいつもないということを、皆さんに信じて貰わなければね。
それを神語りとして聞く事が出来ない、又有り難く頂く事が出来ない、又守るという心も起きて来ないだろうね、はぁ今日話は有り難かっただけではなくて、それを行じなければね相済まんということを、今日はあんた方に聞いて貰いたいと言うて、私ゃここからわざわざ下りて、その吉松さんを含めてそのお話をした事でした。吉松さんが今朝からお夢を頂いておられると言うのがね、ちょうど今日のご理解じゃたろうがていうて、例えばお孫さんのあぁいう様なもの医者やら。
薬じゃどうにも出来ない事になっとりますから、とてもあげんとがようなるごたる。合楽の金光様に参って良うなるごたるならばと、言うて世間ではいうならば笑っておる人もあるかも知れんね、ところが段々おかげを頂いてお孫さんの事でお参りをさして頂いとる内に、だんだん信心が分かって来て、この頃は信心の有り難さが少しは身について来た。それこそ顔が汚れておったり歪んだりしておるから、皆んながわあぁと声をあげて笑おごたるけれども、親先生が持ってきて下さったその西瓜をまぁ全部も頂かん。
まぁ三分の一ばっかり頂いた時には、もう既に顔が奇麗になり顔の歪みが取れておったという、それこそいかにどんなに人から笑われても腹を立ててはならんぞと、神様が顔を洗うてやるぞということが分かるでしょうが、だからどういう事によって、いうならば顔を洗うて貰うかというとね、言うなら水火の行も辞せぬ水火も辞せぬというですね。火でも水でもね辞せないねどんな事があっても、それこそ火や水の行と言った様な行であっても、有り難く受けよう。
親先生から頂いたのだから、有り難く頂こうという気になったら、もう顔を神様が洗うて下さってある。歪んだ顔が奇麗になり汚れておった子が、奇麗いになっておるおるお知らせを頂いたというのです。だから私と吉松さんだけが繋がっておるのではなくてですね。その教えを頂かなければならない程しの人達が、例えば昨日の御理解を頂いてね、はぁ神様が私にかく言うてござると、皆んなで頂くのじゃない私一人が頂く御理解として、皆さんが頂かなきゃいけない。
合楽の御理解は、はぁ今日話ば家ん嫁御に聞かせたかったじゃなくて、頂いておる自分自身一人で頂いておるという気になって、それを守り実行して頂くところから、顔を洗うてやるというおかげになって来るのです。人間は万物の霊長だと、なら誰でも霊長その資格は持っておるけども、霊長としての値打ちを備えとるものは、それこそ極希だと二岩の先生に限らず、霊長としての値打ちはいつも天地と通うておる。天地と繋がっておる、何時も神様と神語りが出来ておると言う位にです。
霊長としての値打ちが発揮されるということはそういうことだ。生まれた時に既に神様の分け御霊を頂いておる私達なんだ。それがここに宿ってござるのだから、だからその間何十年の間について来た我情とか我欲とか、人を憎むとか妬むとか、人が儲けだしゃ腹立つと言うた様な、本当に浅ましい心をです自分の心から、取り払おうとする修行が出来るのも人間だけです。ここはこんなこっちゃいかんと思うたら、それを押さえる事の出来るのも人間だけです。
本気で改まったら本気で研こう、他の動物では改まる事やら研く事やら分かりません、人間だけに許された特権なんです、だからこん位な事は人間だからで終わったら、人間だけで終わってしまわなければならん。人間としての値打ちを発揮する事も出来んなりにしまえていかなければならないね、しかもそれなら合楽でこうして教導受けておる事が、天地の親神様がもう直伝ですいうならばね。一人一人にこうあれよこうあってくれよ、それも難しいといえば難しいけれども、その気になりゃ誰だって出来る事、
自分の心を改める、もうそれこそ清さんじゃないけれども、腹は立てんと決めたらです。腹を立てたらもういうなら霊長としての値打ちがないです。人間ではあってもと言う位に厳しいもの、霊長として値打ちを発揮する。根性の悪い事いわゆる神心です。神の心その神の分け御霊を頂いているから、そのままその神の心に人間の我情がつき我欲がつき、何時の間にか変わり果ててしもうて、人間の面はしとるばっかり、心は鬼じゃろうか夜叉じゃろうかと言う風に変わっていくんです。性が変わって来る訳です。
例えば布なんかそうでしょうもう、汚れて煮しめんごとなっとくと放からけとると、それからチャア‐ンと性が変わってしもうちから、ビリビリ破れるごつなるでしょうが、人間の性が変わって来るのです。そこんとところをいち早く気付かせて頂いたということは信心になる事です。真の信心になる事です。その真の信心によって気付かせて頂いたから、もうこん位なこつはよかじゃなくてね、それを徹底それに取り組んで、腹を立てん修行が自分のものになったら、次には不平不足をいわんですむ自分になろう。
次には不平不足を思わんで済む自分になろうと言うた様にです。それを段々自分のものにしていくということが、霊長としての値打ちをいよいよ身に付けていくことであり、道理に合うた信心をしておるということになるのです。あんまり自分に都合の良い人が難儀をしとると、はぁ気の毒だなぁとこう思うけれども、自分の方には反対良くない、例えばね、例えば私の悪口でもいうと言った様な人達がです、難儀しよるとあれが罰かぶっとるとたいという気持ちしか起こらんもん人間には。
ところが今日私お夢頂いたのは、そういう大体は以前はそういう感じの人達だったんですよ。その人達が何十年間親戚のその付き合いもしないで、隣同志居ったったち物も言わんと言った様な人達がです。ふとした事から仲直りが出来たと聞いたら、それをもう大変有り難く思うておるというところにです。私がおかげを頂いて霊長としての値打ちが段々出来て来よる印だなぁと、今日夢の事に対してお礼を申し上げた事でございました。だからお互いそういう心がね。
いうなら信心させて頂いておる者として、霊長の値打ちをいよいよ発揮させて頂けれるだけの、おかげを頂きたいと念願しておる者に、こういう心の状態があってはおかしい、これではいけないとそれを改まるというところにです、西瓜の行もいとわんと言う様な信心が必要なんです。自分が求めてするのじゃない、神様が与えて下さる修行ならばね、それを合掌して受けようという気になる。末永先生が吉松さんの顔にこうやって墨でこう顔を汚して、そして顔が歪んだということは。
神様の働きの中にはです、おかげを頂かせて下さろうとする為にです。言うならばそれをお試しと言います。神様の働きの中もうこれでも腹立てんか、これでも腹立てんかと言った様な事が起きて来るという、その御用を言うならば末永先生が承っとる訳なんですね、だからそれもやはり神様の働きなんです。それでもです人からどおぅと笑われる様な事があってもね、親先生が下さった西瓜を有り難く押し頂いて、頂くという気になったら、三分の一も頂かん内に顔がいうなら、神様が綺麗に洗うて下さったと。
そしてそこにあるものはお寿司でままになっておった。ということは寿司とは寿を司ると書いてあるでしょうが、人間の幸せを司る程しの心が出来た時には、もうそこには素晴らしい、ままになるおかげを受けられておるということが、昨日吉松さんが頂いとるお夢です。その吉松さんが頂いとるお夢、そして昨日の朝の御理解が吉松さんだけの事じゃなくて、昨日の御理解を頂いた一人一人が、その気で頂かなければ実をいうたら、勿体ないと合楽の御理解は今日の御理解だってそうです。
私ゃ今朝からお夢に頂いた事からヒントを得て、いうなら今日の教典を開かせてもろうたら、御理解70節でした。人間万物の霊長としての、いよいよ値打ちを発揮させて頂く事の為に信心しよう修行しよう、あれば貰わんならんからではなくて、人間としての値打ちをいよいよ発揮でけれる事の為に、真の信心をさして頂こう、本気で修行にも取り組もうと、いう気にならなければならないということが分かりますですね。
どうぞ。